3月15〜17日奈良・京都の旅1・・若草山ふもとエリア

バドミントン仲間5人で奈良と最終日は京都を少し見てきました。
奈良は遷都1300年のための駅・道路そのほか修復工事でまだまだ完成には程遠いような状況でしたがその中で出来る限り見て廻りました

【奈良公園】

奈良公園を通るとあちこちに鹿がいて可愛いしぐさをしてくれた。どの視かも鹿せんべいを上げると頂戴頂戴と首を立てに振ります。でも日光の猿のようにお店のものを失敬するしかはどこにもいません

【東大寺】
天平15年(743)に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の勅願を発布し、国全体をまもる寺として知識(自らの意志で協力する人々)の総力をあげて造営されました。。


東大寺:南大門 (国宝) 東大寺の正門。
天平創建時の門は平安時代に大風で倒れた。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣功した。いずれも運慶,快慶の作


吽形
(うぎょう)

阿形(あぎょう)


中門


回廊を通って大仏殿へ


大仏殿(国宝)
東大寺の金堂で、創建は奈良時代。その後、治承4年(1180)と永禄10年(1567)の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代の宝永6年(1709)に公慶上人によって再建された。規模は創建当初に比べて東西が3分の2に縮小されたが、それでも用材の伐採から完成までに20年以上の歳月を要し、使用された用材は2万6千本余に達したといわれる。建物は一重裳階つき寄棟造り・本瓦葺きで、正面銅版葺き唐破風つきで、東西57.012メートル、南北50.480メートル、高さ48.742メートルにも及ぶ、世界最大の木造建築物である。現在の建物は、この当時のもので、その後兵火に遭うこともなく明治を迎えたが、痛みが激しく、軒は副柱で辛うじて支えられているという状態のため、明治39年(1906)から解体工事に着手し、6年をかけて内部に鉄骨を用いて補強するなど新しい工法が加えられた。さらに昭和47年(1972)から昭和大修理が行なわれ、55年(1980)に落慶法要が盛大に営まれ、現在に至っている。       サイトよりお借りしました。


大仏殿 金銅八角燈籠
金銅八角燈籠(国宝、1956年(昭和31年)6月28日指定、高さ4.6メートル)は、大仏殿の正面に立つ燈籠です。度々、修理されていますが、基本的には奈良時代創建時のものと同形です。火袋には楽器(?・シンバル・縦笛・横笛)を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)と呼ばれる天女像の浮き彫り(4面)があります。他の4面は、扉になっており唐獅子が浮き彫りされています。


?(う)を奏でる音声菩薩

シンバルを持つ音声菩薩

縦笛を吹く音声菩薩

横笛を吹く音声菩薩


東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)国宝


多聞天(右)

広目天(左)


二月堂
旧暦2月に「お水取り」が行われることから二月堂と呼ばれています。
 二月堂は、2度の戦火(平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年))にも、焼け残ったと言われていますが、
寛文7年(1667年)の「お水取り」で失火で焼失してしまいました。
 現在の建物は、その2年後に再建されたものです。
 そして、二月堂の建物は2005年12月に国宝に指定されました。



【興福寺】
710年、平城遷都の際に、藤原不比等(ふひと)が飛鳥にあった厩坂寺(うまやさかでら)を移築し、興福寺に改名。法相宗の大本山。藤原鎌足の病気平癒のため、夫人の鏡大王が京都山科の私邸に建立した山階寺が厩坂寺(うまやさかでら)の前身となるため、興福寺は山階寺→厩坂寺(うまやさかでら)→興福寺と2度名前を変えている。


国宝館
ガラスケースなしで阿修羅像を含む八部衆・十大弟子像14体のうち13体、鎌倉彫刻の傑作の金剛力士像、天燈鬼・龍燈鬼などが露出展示。
細部にこだわり多方向から照明を当てて、表情が鮮明になっているのが見どころ。
阿修羅像や千手観音菩薩立像を国立博物館で見ましたが矢張りあるべきところにおわします。と言う思いでした。

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